近所に、散歩するには実にいい遊歩道があります。 木があって、空が抜けて、車の音が遠くて、歩く人の顔つきがだいたい穏やか。
で、問題はここからです。 買い物のついでに「ちょっとだけ」のつもりが、気づけば1時間。 ええ、もうこんな時間? 財布の中身は減っているのに、歩数だけ増えている。 世の中って不思議ですね。
でもこの「つい歩いてしまう」という現象、くだらないようで意外と侮れません。 私の散歩は、立派な計画の結果ではありません。 「健康のために!」なんて顔はしていない(たぶん)。 ただ、体が勝手に「もう少し」と言っている。 いわば、身体による小さな多数決です。
散歩したい、ではなく「散歩してしまう」
こちらの遊歩道、歩いていると“押しつけがましさ”がないんです。 「さあ健康になりましょう!」「さあ運動しましょう!」と、背中をドンと押してくる感じがない。 代わりにあるのは、「まあ、歩いていってもいいんじゃない?」という、控えめな誘い。
こういうの、私みたいなおじさんには効きます。 グイグイ来られると引きますが、そっと差し出されると弱い。
車の音が少なくて静か。空が見えて、視界が広い。 誰かに急かされることもなく、木陰やベンチもある。 すれ違う人たちの雰囲気まで、なんだか穏やかです。 そんな小さな心地よさが重なると、歩くことが「運動」というより、気分を整える時間になってきます。
つまり私は、散歩しているようでいて、実は自分の気持ちをメンテナンスしているのかもしれません。 何を整えているかは……そのときはよく分かりません。 でも、歩いたあとは不思議と頭の中が片付いている。
「なんとなく」の中に、価値は隠れている
「なんでそんなに歩いちゃうんですか?」と聞かれたら、私の答えはだいたい決まっています。 「なんとなくです」と。 これ、言い逃れではなく、かなり真実です。
人はいつも、はっきりした理由があって動くわけではありません。 なんとなく心地よくて、気づけば続けている。 理由はあとから考えて、ようやく見えてくることもあります。
そして、この「なんとなく」を侮ると、商品づくりやマーケティングも迷子になりかねません。 生活者が感じていることは、「不満」や「要望」としてきれいな言葉で出てくるとは限らないからです。 「つい」「なんかいい」「気づいたら」という行動の中に、大切な手がかりが隠れていることがあります。
たとえば、私の散歩をアンケートにしたらどうでしょう。 「遊歩道の満足度は?」と聞かれたら、「まあ満足」と答えるかもしれません。 ……これだけだと、何も分からない(笑)。 本当は、静けさも、空の広さも、急かされない感じも、全部少しずつ効いているのに。
共創の現場でも大事なのは「答え」より「ほどき方」
企業が生活者の声を聞くとき、「何が欲しいですか?」「どこが不満ですか?」と尋ねたくなります。 もちろん、それも必要な場面はあります。 でも、「なんとなくよかった」という言葉を、そこで終わりにしないことも大切です。
たとえば散歩なら、「どのあたりで、もう少し歩こうと思ったんだろう?」 「何が心地よかったんだろう?」 「逆に、どんな場所なら引き返したくなるだろう?」と考えてみる。
誰かと話しながら、そんな感覚を少しずつほどいていくと、最初は自分でも気づかなかったことが見えてきます。 「歩きやすい道」だと思っていたものが、実は「気持ちを落ち着かせてくれる場所」だった、というように。
商品やサービスでも、同じようなことがあるのではないでしょうか。 機能や便利さだけでなく、使うときの心地よさ、安心感、自分らしくいられる感じ。 その人が自然に選んでいる理由を、一緒に探っていく。 私は、そうした時間にも共創の面白さがあると思っています。
買い物ついでの1時間が教えてくれたこと
買い物のついでに、気づけば1時間歩いてしまう。 これは私の意志が弱いのではなく(たぶん)、遊歩道に、つい歩きたくなる心地よさがあるからなのでしょう。
「なんとなく」という言葉の中には、本人にもまだ説明できない理由が隠れていることがあります。 その理由を急いで決めつけず、一緒に見つけていく。 そんなことを、今日の散歩で改めて考えました。
つまり私は今日も、散歩で仕事をしていた……ということで。
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